ヒストリー&レガシー

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輔仁会100年のあゆみ 大正〜昭和〜平成 4万人の和

【1】札幌二中時代

1期卒業生は 48 人

二中1期生は最初から二中に入学したのではなく、1912(明治45)年に札幌中学(一中=現札幌南高)に入学し、翌年4月、新設された二中に2年生として転入学しました。転入時は78名でしたが、留年や退学者が多く、5年後の卒業時には48名に減っていました。当時の教育の厳しさがうかがえます。1917(大正6)年7月29日の輔仁会発足式兼第1回総会には、卒業生21名が参加したと記録されています。

“輔仁”とは論語の顔淵第十二 曾子曰、「君子以文會友、以友輔仁」 (曾子曰く、君子は文を以って友を会し、友を以って仁を輔く)の2文字を取ったもの。君子は学問で友だちと結ばれ、友情で人間性を豊かにするという意味です。

二中の初代校長は一中の教頭だった善波功先生です。その高遠な理想と人格で生徒に慕われ、二中の基礎を築きましたが、1期生が母校を巣立つ半年前に宮崎県延岡中学校長に転任されています。輔仁会が「善波賞」を制定したのは二中時代ではなく太平洋戦争後、新制高校になってからです。1956(昭和31)年に死去した善波元校長の遺族から西高に寄付の申し出があり、その遺志にこたえて設けられました。

同窓会誌「輔仁」創刊号

校歌と校旗寄贈

初期の同窓会活動としては、年次総会開催や会報発行くらいだったようですが、次第に母校卒業式で祝辞

を述べたり新入会員の歓迎会を開催するなど活動の幅が広がっていきました。

1922(大正11)年、母校創立10周年の記念事業として、輔仁会が校歌(作詞:土井晩翆、作曲:中田章)と校旗を母校に寄贈しました。また、1937(昭和12)年、母校創立25周年に際しては、善波先生の記念講演会を開催したほか、総合運動用具の寄贈を行いました。一方、1929(昭和4)年には、定時制の前身である札幌夜間中学の同窓会も発足しています。

輔仁会が寄贈した二中校歌・校旗

発足当初から資金難

発足当時の同窓会活動の課題については、会報『輔仁』創刊号に、「会員未だ年齢若く経験も乏しく、為に会務の一切は挙げて母校職員の好意に委せし」との記載が見られます。同窓会報も経費の都合によって何度か休刊せざるを得なくなり、種々奔走の結果、学校当局に依頼して卒業時に入会金を納入してもらうことでわずかながら定収入を確保できたようです。

その後も会費徴収問題は、幾度も協議されています。同窓会における重要課題のひとつが活動原資の確保であることは、大正時代から昭和を経て平成の今日まで続いています。現在の維持会費制度も、諸先輩の“叡智”の積み重ねの上に成り立っていると言えます。

【2】二中・二高から西高へ 男女共学で新旧同窓会が並立

戦時短縮、4年で卒業

太平洋戦争の終盤、本来は5年の旧制中学の修業年数を4年とする「戦時短縮」が実施されました。輔仁会会員名簿では、二中29期と二中30期がともに1945(昭和20)年卒となっています。また、終戦直後の1946(昭和21)年卒の二中31期はわずか65名で、その前後期の200名以上と比べると非常に少ない人数です。

1948(昭和23)年、学制改革(六・三・三・四制)により、札幌二中は北海道立札幌第二高等学校に転換されましたが、北3条西18、19丁目にあった木造校舎や先生方は従来のままでした。大学進学には新制高校卒が条件であり、旧制中学5年生を修了後に新制高校3年生に編入して通算6年間通い、二中と二高の両方の卒業証書をもらった人もいます。

4校再編、半数が転校

学制改革の影響が本格的な形になったのは1950(昭和25)年5月1日のことです。連合国軍総司令部(GHQ)の強い指導によって男女共学の実施が急がれ、札幌市内の公立高校が再編され、二高は北海道札幌西高等学校と改称されました。そのため、5月1日が開校記念日となっています。

再編にあたって通学区域が設定され、住所によって転校を余儀なくされた人も大勢いました。当時の3年生(西高1期)449名の出身校内訳を見ると、二高(現西、男子)236名、一高(現南、男子) 72名、庁立(現北、女子)102名、市立(現東、女子) 39名で、約半数は市内他校からの転校生でした。2年生(西高2期)の出身校内訳も同様です。当時の1年生(西高3期)からが、新制中学校を卒業して西高に入学した“生粋の西高生”ということになります。

東西南北合同1期会(1990年)

合同で同期会開催

逆に二高から他校へ転校した人は、「二高より○高へ1期」「二高より○高へ2期」と輔仁会会員名簿に記載されており、住所判明者には輔仁会だよりが現在も送付されています。

このように、札幌の東・西・南・北各高校の1期と2期は、入学した学校と卒業した学校が違っても共通の友人や知人が沢山いることから、合同卒業名簿が作成され、合同同期会も開催されたこともあります。

東西南北2期合同同期会員名簿(1987年)

輔仁会加入めぐり論争

1951(昭和26)年、西高1期の卒業に際し、男子校だった二中・二高の同窓会である輔仁会に加入すべきかが生徒会で大論争となりました。南高では一中からの六華同窓会に加入するというのが自然な流れであったのに対して、西高では男女共学の“新生西高”として新たな同窓会をつくるべきだという意見も多く、輔仁会とは別の「札幌西高同窓会」を設立することが評議委員会において僅差で決議されたのです。

初代札幌西高同窓会長草光昭氏(西高1期)によると、約3年間独自の活動をして会誌も発行しましたが、輔仁会側からの継続的な働きかけもあって同窓会組織を合併することに決めたそうです。

統合時、名称でもめる

しかし、同窓会の名称を二中から続く「輔仁会」とするか、新たな名称とするかについての決着は難航したそうです。1954(昭和29)年5月の西高新聞29号は、「活動は西高卒業生を中心とし、輔仁会は行事の経済援助をすることなどの条件をつけ、“連合体”となることを本校同窓会が決定した」と報じています。この記事中の「輔仁会」は二中・二高同窓会を意味し、「本校同窓会」は札幌西高同窓会を意味しています。それだけ当時は男女共学となった“新生西高”という意識が他校よりも強かったのです。今でこそ「輔仁会イコール札幌西高同窓会」であると卒業生の多くが思っていますが、当初は別々の組織だったわけです。

西高同窓会の設立を伝える西高新聞7号

定時制は 1961 年合流

今日の輔仁会の発展と100年の歩みを振り返るうえで、札幌西高同窓会の新規設立と3年後の輔仁会との一本化は最大の出来事といえます。
なお、定時制同窓会は、1961(昭和36)年に輔仁会と合併しました。

【3】宮の森で同窓会の基盤を確立 維持会費、当番期制を導入

校舎火災を乗り越え

1960(昭和35)年7月、二中以来の伝統を受け継いできた木造校舎(北3条西18~19丁目)の大半を火災で焼失しました。輔仁会は、災害復興を支援するための金活動や義援音楽会を行いました。校舎改築に向けての準備は火災以前に始まっていたのですが、焼失したことにより宮の森校舎の建設が急がれたのです。

火災翌年3月の西高11期卒業式は市民会館を借用しましたが、1962(昭和37)年3月の12期卒業式には宮の森校舎体育館の完成が何とか間に合いました。12期生にとっては、わずか半日の新校舎でした。

校舎火災からの復興を願い開かれた義援音楽会

 50 周年で記念館建設

宮の森に移転後、母校創立50周年記念事業として、1965(昭和40)年に輔仁会が「記念館」を建設して寄贈しました。生徒玄関の北側にあり、男子の体育授業では剣道、女子は創作ダンスなどに使われましたが、何の記念館なのかを知っていた生徒は少なかったようです。

1977(昭和52)年には、輔仁会設立60周年記念事業として、佐藤忠良氏(二中14期)作ブロンズ像「蒼穹」を寄贈しました。レンガ校舎第3棟の生徒玄関側に建立された像は、2012年の母校創立100周年記念事業で整備した彫刻プロムナードで今も親しまれています。

記念館とブロンズ像「蒼穹」

「輔仁会だより」創刊

「輔仁会だより」の創刊は、1981(昭和56)年です。それ以前は、西高新聞の中に「輔仁会だより」欄が時折掲載されていました。創刊当初は住所判明者が少なかったためか、地下街の道新サービスコーナーなどに置かれました。レンガ校舎の宿直室や食堂で折り込み作業が行われたというエピソードもあります。

今では年2回の発行が定着し、世代を超えた会員相互の交流に欠かせない存在となっています。1986(昭和61)年から郵送を始めたことで、会員の最新住所確認ができ、名簿データの維持管理手段としても重要な役割を担っています。

「輔仁会だより」創刊号(1981年)

  若い世代の参加課題

輔仁会の主な収入源は、毎年の卒業生からの入会金と周年事業等の協賛金でしたが、これだけでは継続的な活動には不十分のため、1985(昭和60)年に維持会費制度を導入しました。当初は年間1口1,000円、1997年より1口1,500円になりました。二中卒業生の維持会費納入率の高さに長年支えられてきました。今後は、若い世代の納入率向上と活動参加が課題です。

総会・懇親会の運営面では、当番期制が1985年(西高7期)からスタートし、以来30年続いています。40歳代後半での同期生との再会や新たな出会いは、その後の長い付き合いのきっかけとなり、母校や同窓の絆への感謝の気持ちを新たにします。

 「二中物語」を出版

1988(昭和63)年、「札幌ニ中物語 桜と雪と青春と」が輔仁会設立70周年記念として出版され、二中卒業生の各分野での活躍が1冊にまとめられました。残部がありますので、ご希望の方は輔仁会事務局までお問い合わせください(1冊1,500円)。
このように、輔仁会は宮の森レンガ校舎時代に同窓会としての活動基盤を徐々に整えてきたのです。

輔仁会設立70周年記念「二中物語」

【4】輔仁会館を活動拠点に 同窓の交流は世代を超えて

同窓会活動の拠点完成

西高校舎の全面改築の翌年、1996(平成8)年に同窓会館を建設して輔仁会から道に寄贈しました。同窓会館建設は輔仁会の悲願で、1億円を目標に建設資金を募りました。レンガ校舎時代の記念館も輔仁会が寄贈した建物でしたが、輔仁会館には同窓会活動の拠点として輔仁会事務局も設置しました。道立高校で校舎とは別棟の同窓会館を保有するのは異例です。

会館オープン記念イベントとして、1997(平成9)年6月に佐藤忠良母校展と、室内楽・邦楽の演奏会を開催しました。普段は同窓会活動のほか、邦楽部、演劇部、軽音楽部などの文化系の部活動やPTAの集会など大変有効に活用されています。

輔仁会館(1996年落成)

 情報の収集と発信と

2000(平成12)年、西高としての卒業生が50期になったのを機に、札幌二中物語(1988年刊行)の続編として札幌西高物語『蒼穹の庭』を発刊しました。西高13期佐々木公江さんによる題字のオリジナルは、輔仁会館に保存されています。

広報活動として、「輔仁会だより」の発行に加えて2000(平成12)年にホームページを開設しました。
事務局からの行事案内のほか、各同期会や支部、西高関係団体へのリンク集も設けられています。

1999(平成11)年に資料保存委員会が発足し、焼失した二中時代や木造校舎時代の資料収集活動を開始し、2003(平成15年)10月に『二中校舎まつり』を開催しました。その後、二中・二高・西高・西定『資料展』と名称を変えて開催を続け、数年前からはレンガ校舎時代の資料も充実させています。

札幌西高物語『蒼穹の庭』(2000年)

 社会人として現役支援

社会人OBから現役生徒へメッセージを届ける場として学校の年間行事になっている「羅針盤セミナー」は、西高25期が当番期だった2003(平成15)年にスタートしました。

また、輔仁会とは別組織ですが、札幌西高等学校振興会(通称:札幌西高サポーターズクラブ)での「西高カード」手数料の一部還元による生徒会や部活動の援助は2004(平成16)年から実施されています。

さらに、母校創立100周年の際の「西高ドリームプロジェクト」は、同窓生の母校への思いとして資金を募って企画を選考した結果、富士山よりも高い山に挑むという山岳部生徒のキナバル登山を実現させ2013年元日の北海道新聞を飾りました。

羅針盤セミナー(2003年より)

活発交流はネットでも

同窓会員交流の年間行事は、東京輔仁会、ゴルフ大会、パークゴルフ大会、当番前後期交流会、支部会(道北・道南・道東・苫小牧)など西高に着任した教頭先生や事務長が驚くほど活発です。

今後の同窓会活動を展望するうえで、今やFacebookの存在を抜きに語ることはできません。非公式支部ではありますが「札幌西高OB会(輔仁会Facebook支部)」には1400名超の同窓生が参加して世代を超えた交流を行っています。

また、各同期グループや、ハンドボール部、バスケットボール部、サッカー部、ラグビー部などの部活OBグループもあります。サッカー部とハンドボール部は、母校でのOB戦を毎年8月に実施しています。
文化系では、オーケストラ部のOB演奏会が32回を数えました。

Facebook札幌西高OB会

 全国屈指の同窓会に

初代校長の善波功先生は、札幌二中を全国屈指の学校にしたいとの思いを抱いて校長に就任しました。
我が輔仁会もその志を受け継いで、北海道一、そして全国屈指の高校同窓会を目指しましょう。