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探究 西高アーカイブス
2022/01/15
輔仁会だよりに2015年から連載されてきた【探究 西高アーカイブス】
輔仁会資料保存委員会は、輔仁会館建設から数年経った1999年に発足しました。火災焼失により学校にない木造校舎時代の歴史的資料を同窓生から収集することから始め、毎年「二中・二高・西高資料展」を開催しています。このコーナーでは、資料保存委員会で保管している“西高アーカイブス”のお宝の一端を資料展にご来場いただけない皆様にもご紹介していきます。
目次
- 【第1回】生徒通用門
- 【第2回】運動会の歴史
- 【第3回】行灯行列のコース変遷
- 【第4回】校舎火災からの復興
- 【第5回】男女共学のはじまり
- 【第6回】
- 【第7回】
- 【第8回】
- 【第9回】
- 【第10回】
- 【第11回】
- 【第12回】
- 【第13回】
第5回 男女共学のはじまり
1.1期生の生い立ち
西高1期生男子の多くは、1945(昭和20)年4月に旧制庁立札幌第二中学校に入学した。軍事教練もあった。6月には「援農」で農家の手伝いに駆り出された。どうして12歳の少年が援農に出たのか分からないが、当時の沖縄では日本軍と共に少年兵たちも戦っていた。北海道にロシアかアメリカが攻めてきたら、少年兵として戦う準備だったのかもしれない。
8月に終戦、10月頃から授業が再開。5年間で旧制中学を卒業する予定だったが、途中で高等学校に制度が変わったことで、二中・二高・西高と合計6年間も同じ校舎で学んだ。
2.男女共学のため4校再編
1950(昭和25)年5月、二高生は、一高(南)・庁立高女(北)・市立高女(東)と合わせて、教育委員会が決めた学区に従って自宅に近い学校に再配置された。私は同じ校舎で西高だった。
この男女共学制度を導入するに際し、当時の校長会などでは問題が起きたと聞いている。
●1950(昭和25)年1月16日
連合国軍総司令部民間情報教育部長アルバーゴッチ大佐と道民教育課長ニブロは、高校再配置のための全道高等学校長会議に出席。
●1950(昭和25)年2月13日
道立札幌一高は、道立札幌高女、市立札幌高女とともに男女共学全面実施に反対するため三校協議会を結成。同じ男子高であっても、道立札幌二高・山本梅雄校長は反対しなかった。
3.スクエアダンスと制服
ニブロさんたちの指導でスクエアダンスも授業に採り入れられた。17歳の生徒たちはドキドキしながら手を取り合って踊った。1951(昭和26)年2月の第1回札幌雪まつり会場でも踊った。
男女共学になっても、西高制服などを考える余裕もなかった。女性は庁立高女と市立高女との制服を着たまま、最後の3年生を過ごした。
左が庁立高女、右が市立高女の制服
第5回 東西南北同期会 2002(平成14)年6月14日 ロイヤルホテルにて
4.東西南北1期会
我々1期生は東西南北に別れた親友たちが、それぞれの高校を卒業して社会人になった頃、4校の有志が集まって「東西南北1期会」を形成した。そして第1回同期会が開かれたのは、1990(平成2)年7月。高校卒業後39年も経って、58才になっていた。
その後も回を重ね、最後は2002(平成14)年6月の第5回。卒業当時は4校合計で約1400名だったので、1000名規模を収容できる会場を見つけるのに苦労したのを憶えている。
資料保存委員兼広報委員 西高1期 沼田 勇美(85才)
第4回 校舎火災からの復興
1960(昭和35)年7月の木造校舎火災焼失を生徒として経験した西高11~13期の方々は70代になりました。校舎火災に関する写真としては、炎上中の校舎に突入する消防士、「西校は消えず」の落書き等が有名ですが、ほかにも保存されている写真があり、生徒も一丸となって復興作業を行ったことがわかります。
北3条西18~19丁目の西高跡地の大半は、札幌龍谷学園高等学校(1963年札幌女子高等学校開校、1995年校名変更、1998年男女共学実施)や西本願寺札幌別院となっていますが、一角には「二中公園」があり、札幌市ホームページ(中央区歴史の散歩道)の中で旧制中学の名前を残す公園として紹介されています。
第3回 行灯行列のコース変遷
西高祭の前夜祭行事として長年続いている“行灯行列”。今回はそのコースの変遷をたどってみましょう。
行灯行列が始まったのは1953(昭和28)年第4回文化祭です。1955年発行『西高生徒会小史』によると、グラウンドが国体に備えて整備のため使用できず、それまでのストームに代わって男女とも全員が参加できる行事として1週間程前に案出された突飛な計画だったのです。
初回の行列コースについての記録は残っていませんが、翌1954(昭和29)年第5回文化祭を前に、コースを南1条通まで拡張する案が生徒大会で決議されました。学校側は北3条の校舎を出発して北1条通を横断するのは危険との理由で当初は許可をせず、生徒の強力な団結により職員会議が再考して南1条コースが許可されました。
木造校舎時代の行灯行列コースは、1956(昭和31)年第7回文化祭=①=、1957(昭和32)年第8回文化祭=②=、1960(昭和35)年第11回文化祭=③=、1961(昭和36)年第12回西高祭=④=がプログラムに残っていますが、よく見ると全て異なります。
宮の森に移転直後の行灯行列コースは、国鉄琴似駅前方面でした。
1966(昭和41)年第17回西高祭のプログラムにコース図=⑤=があります。
その後、北1条通の西方面延長、地下鉄東西線開通などがあり、神宮前を経由して西28丁目駅方面を周ることになりました。1977(昭和52)年第28回から1980(昭和55)年第31回西高祭プログラムのコース図=⑥=は同じです。「山の手ストアー」とあるのが時代を感じさせます。
行灯行列コースが山の手方面になり、山の手ストアーが「ラッキー」に変わったのが1981(昭和56)年です。
1986(昭和61)年第37回西高祭プログラム=⑦=には、まだ「香蘭高校」と書かれています。
そして西高が現校舎になった頃、まだ行灯行列は山の手通を歩いていました。1997(平成9)年第48回西高祭プログラム=⑧=には、「拓銀」と「フレッティ」もありました。
浴衣姿の生徒が見られ始めたのは1990年代で、現校舎になった1996(平成8)年第47回ではすっかり定着しました。現在のように西高祭の開催時期が夏休み前の7月になったのは、2001(平成13)年第52回からです。
第2回 運動会の歴史
第12回資料展の開催にあたって当番期(西高38期)の皆さんに資料提供を呼びかけたところ、運動会の挑戦状を寄贈いただきました。そこで、今回は西高運動会の歴史を紹介しましょう。
新生西高発足の1950(昭和25)年から開催されている伝統行事ですが、3色対抗戦、ソーラン節、花笠おどりは最初からあった訳ではありません。現存する最古の運動会プログラムは1955(昭和30)年9月のもので、当時は1組〜8組のクラス対抗戦でした。
1958(昭和33)年9月のプログラムでは、4色対抗戦(赤・青・黄・緑)になっています。この年の1年生から9クラスとなり、単純なクラス対抗戦が成立しなくなったためと思われます。ソーラン節と花笠おどりも登場しています。この年に入学した上野了前輔仁会会長(西高11期)の記憶も「1年の時の運動会は、確かに4色対抗戦だった」とのこと。
1959(昭和34)年の西高新聞59号にも、4色対抗、ソーラン節、花笠おどりについて記載があります。
1960(昭和35)年の運動会は、木造校舎火災直前の6月開催ですが、資料が残っていません。火災翌年の1961(昭和36)年は第12回西高祭初日の9月21日(木)が運動会で、3色対抗戦になりました。1962(昭和37)年は、6月に円山競技場で開催されました(西高新聞73号)。
1970年代から80年代には、3色のほか、黒団、桃団などが秘密裏に結成されて開会式に乱入したことが「百年の物語」に記載されています。1984(昭和59)年の西高新聞には、「黒団出場阻止」の見出し、日の目を見なかった挑戦状文面が載っています。このほか教育実習生による「狂生団」もあり、1979(昭和54)年の狂生団写真には、母校で教育実習中の前川校長(西高26期)の姿もあるそうです。
当番期から寄贈された1987(昭和62)年の黄組挑戦状は、団長の北川輔氏が運動会前日に友人宅で徹夜同然で書き上げた巻紙約20mの大作です。挑戦状の読み上げだけで、競技開始が何十分も遅れたことも珍しくありません。
近年の運動会は6月の平日開催のためOB観戦は少ないようですが、一心同体など長年続いている種目も健在です。
第1回 生徒通用門
裏から入った?新入生
1回目に紹介するのは、「生徒通用門」です。輔仁会館にはレンガ校舎時の校名プレートと生徒通用門の表札板がセットで保管されています=写真上=。校名は金属製で、生徒通用門の表札は陶器です。
レンガ校舎の正面玄関(職員と3年生用)は、現在野球グラウンドとなっている琴似川寄りでしたが、1、2年生が使用する生徒玄関はバス停やラッキー(年代によって桐生商店、山の手ストアー)に近い北側にあり、元道立理科教育センター側の入口が生徒通用門でした。現輔仁会館の前、彫刻プロムナード付近です。
入学試験の時から通用門を通り“裏玄関”から入ったので、当時の西高生は皆“裏口入学”をして、卒業は正面玄関から堂々と別れを告げたのです。校名プレートの存在は記憶にない人も多く、むしろ人によっては正面(第1棟)脇の“遅刻玄関”=写真下=の方が記憶にあるかもしれません。 (資料保存委員会)